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      <title>ことわざ百科</title>
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         <title>楽は苦の種、苦は楽の種</title>
         <description>『楽は苦の種、苦は楽の種』（らくはくのたね、くはらくのたね）とは、苦は楽を招き、楽は苦を招くという意味をもつことわざである。今、楽を選択すれば後で苦を味わうことになり、逆に今、苦を選択すれば後で楽ができるということを言っている。つまり、どちらにせよ苦と楽は背中合わせであり、先にどちらを選択してもどちらとも付いてくるということである。子供が夏休みの宿題を早めにするかどうかということに例えるとわかりやすいかもしれない。夏休みに入ったからといってすぐに遊ばず、一気に宿題を片付けてしまえば後半、楽しく遊んでいられるが、最初に遊ぶことを選択すれば夏休みに入った途端、休みを満喫できる。しかし、後半になって夏休みも終わる頃、宿題を始めれば慌ててやることになり、周囲に迷惑をかけてしまいかねない。どちらを選ぶかは自分次第である。いずれにせよ、やらなければならない事は同じ数だけあるのだ。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:18:06 +0900</pubDate>
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         <title>瑠璃も玻璃も照らせば光る</title>
         <description>『瑠璃も玻璃も照らせば光る』（るりもはりもてらせばひかる）とは、瑠璃と玻璃は違う物であるが照らせばどちらも光ることから、優れた素質を持っている人は学習や修養を重ねれば一段と磨きがかかるという意味を持つことわざである。瑠璃とは、青色の宝玉を指し、「玻璃」は水晶のことを指している。どちらも七宝の1つであり、それが例えに使われているということは、誰もが持っているものではないことが表されているのだろう。素晴らしい素質を持っている者は、磨きをかけるほどより素晴らしい逸材となるのだ。しかし、それに気づかず何もせずにいたら、ただの凡人になってしまう。期待できそうな新人に対して「ダイヤの原石」と例えることがあるが、これも磨けばダイヤになるが放っておくとただの石ころなのである。恵まれた環境にある人間は誰でも光るという、ちょっと皮肉を込めたことわざかもしれない。『親の七光り』と似たことわざでもあるだろう。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:19:06 +0900</pubDate>
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         <title>笑う門には福来る</title>
         <description>『笑う門には福来る』（わらうかどにはふくきたる）とは、いつも笑っている家には幸運がやってくるという意味を持つことわざである。ここでいう「門」とは一族や一家のことを指しており、家族全員がにこにこと楽しく笑顔で暮らしていることで福が舞い込んでくるということを言っている。確かにぶっちょうづらの人間より、笑顔でいる人間の方が人から愛されるだろう。笑いというのは人にとって良いものであり、心身ともに健康でいられる秘訣にもなっている。暗い世の中だからといって、家族みんなが暗い表情で生活していたのでは余計にストレスがたまり病気になってしまう可能性が高い。医学的にも認められてきているのが、やはり笑うことである。笑うことで癌の発症率が低くなるという研究結果も発表されているくらい、笑いというのはすごいパワーを持っているのである。和気あいあいと楽しそうに暮らしている家族の周りには自然に人が集まってくるもの。それと同時に福も集まるのだろう。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:23:11 +0900</pubDate>
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         <title>礼も過ぎれば無礼になる</title>
         <description>『礼も過ぎれば無礼になる』（れいもすぎればぶれいになる）とは、礼儀を尽くすことも必要以上にやり過ぎると、逆に失礼になってしまうという意味を持つことわざである。無礼になってしまっては困ると思い、相手に過剰に接してしまうことは相手にとって邪魔くさいものになり、不快を与えかねない。礼儀というのは、ほどほどにするからこそ伝わるものなのだ。わざとらしい態度は心から思って行動しているようには思われないだろう。良く思われたいが故の行動ととられてしまうかもしれない。それでは何にもならないので、節度を持った行動で相手に礼儀を尽くすのが一番である。優しさも、さりげないものこそ伝わるもの。それと同じように、相手にわかられないように自然に振舞える礼儀こそ本当の礼儀なのであろう。心がこもっていないものは相手に伝わるものである。やれば良いというものではなく、心のこもった態度こそ相手に礼儀を尽くすことになるのだ。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:24:37 +0900</pubDate>
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         <title>夢に牡丹餅</title>
         <description>『夢に牡丹餅』（ゆめにぼたもち）とは、都合が良いことばかり続き夢ではないかと思うくらい幸運であるという意味を持つことわざである。牡丹餅は昔の御馳走であり、なかなか食べられないものであった。そのため、幸運に出くわすということは牡丹餅を食べるくらい嬉しいことで、滅多にないという意味でもある。せいぜい夢で食べるくらいはあっても現実ではないことが多いことからこのように例えられたのである。思い通りにことが運ぶというのはなかなかないものであり、信じられないのが現実だろう。夢ではないかと思うほどの幸せに巡り合えることは滅多にない。そんな幸せは夢の中くらいのもので、現実にあると戸惑ってしまうのが人間なのかもしれない。あまりに思い描いていたとおりの幸福が訪れたら、裏に何かあるのではないだろうかと疑いすら抱いてしまうだろう。類似したことわざに『夢に餅食う』があるが、どちらも昔の御馳走が例えに使用されている。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:26:48 +0900</pubDate>
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         <title>故の木阿弥</title>
         <description>『故の木阿弥』（もとのもくあみ）とは、悪い状況が一時的に良くなったのに、再び悪い状況に戻ってしまう様を表したことわざである。筒井 順昭が戦国時代の大名だった時代、順昭が死去した時に跡継ぎである順慶が幼かったために、木阿弥という順昭の声に良く似た人物を変わりに立て、暗い部屋に寝かせて順昭が亡くなったことを隠し通した。そして順慶が成人して、順昭の死を公表するとそれまで身代わりをしていた木阿弥は、元の身分に降ろされてしまったことから由来しているという。せっかく一時は、身代わりであっても大名という地位に立つことができたのに、何事もなかったかのように元の身分に戻されてしまうというのは辛いものである。身代わりの役を果たすのも苦労があっただろう。その苦労が無駄になってしまうことを表したことわざでもある。類似した慣用句に『水の泡』という言葉がある。水面に浮かぶ泡は儚く消えてしまうものであり、その泡のように努力の甲斐がない様子を表している。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:29:28 +0900</pubDate>
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         <title>食うだけなら犬でも食う</title>
         <description>『食うだけなら犬でも食う』（くうだけならいぬでもくう）とは、何もしないで食べるだけなら犬でも出来るということから、それでは人間としての値打ちがないという意味のことわざである。昔の知識では、犬は食べることにだけ幸せを感じる生き物という認識だったため、犬が例えに出されているようだが、現代の愛犬家には納得の行かないことわざになってしまうだろう。しかし、このことわざが表しているのは、せっかく人間として生まれたのだから、あらゆる手段を使い苦楽を共にするからこそ幸せであるのだというところに、幸福を見出して欲しいという意味も込められているのだろう。ただ、食べて寝ることを繰り返すだけの人生に満足してしまったのでは、勿体ない。何か意義のある行動をしてこそ、本当に人生を楽しめるのだろう。時に苦しいことがあったとしても、それも人生と思い楽しむ余裕が欲しいものである。楽しく生きるには工夫が必要なのかもしれない。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:31:30 +0900</pubDate>
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         <title>芸は身を助ける</title>
         <description>『芸は身を助ける』（げいはみをたすける）とは趣味や道楽で覚えた芸が、後に役に立つという意味を持つことわざである。机に向かうだけの勉強が出来るよりも、他人と比較した時に芸術面で優れた知識を持っていた方が役に立つことが多いものである。この場合の「芸」とは、本格的に習った芸事ではなく趣味などで軽く習ったものであり、それが自然に身についていたことで、救われるということである。しかし、近年では自然に身に付けたもの以外の技術的な芸も含まれるようで、芸能関係の仕事をしている人に対して使われることもある。何もできなくとも、身体を使って周囲の人を喜ばせることができれば充分であるという芸術性のある人間を肯定することわざでもある。芸というのは全ての人に身に付いているものではなく、選ばれた人にしか与えられないものなのかもしれない。しかし、何か経験しておけばいつかは役に立つ時が来るかもしれないので、何事も一生懸命やっておくべきだろう。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 14:32:30 +0900</pubDate>
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         <title>鬼の目にも涙</title>
         <description>『鬼の目にも涙』（おにのめにもなみだ）は、普段、鬼のように怖い存在の人も時には情けに涙することを表すことわざである。利用例は「課長が映画を観て泣くなんて、まさに『鬼の目にも涙』だね！」。普段、「鬼」と呼ばれている人は意外にも情け深い人が多い。昔話に出てくる「鬼」も、人間から怖がられていることを寂しく思い、その反動で悪さをしてしまっていたりする。また、悪さをしたわけではないのに、「鬼」というだけで悪い事は全部「鬼」のせいにされている、かわいそうな「鬼」もいる。このように人間の間でも、見た目が怖そうだったり、仕事に厳しい上司などは毛嫌いされ、話もしてもらえない。それゆえに、本当の性格を知られるきっかけがないため、思わぬ所で出た涙に対してこのことわざが使われるのだろう。また、『鰐の目にも涙』（わにのめにもなみだ）と言われることもある。その涙を見ることで、その人の印象はすっかり変わることだろう。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 15:48:08 +0900</pubDate>
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         <title>帯に短し襷に長し</title>
         <description>『帯に短し襷に長し』（おびにみじかしたすきにながし）は、帯にするには短すぎるし、襷にするには長すぎる。どちらにも中途半端で使えない様を表すことわざである。利用例は「この箱を測るのに、この物差しでは『帯に短し襷に長し』だなぁ」。いつか使えるだろうと捨てずに取っておいた物によくある話である。記憶の中でのサイズと実際のサイズにズレが生じるために起こるとも言えるだろう。しかし、そのズレに大差はなく、惜しいのに使えない。という時に『帯に短し襷に長し』が出てくる。同じような言葉に『大は小を兼ねる』（だいはしょうをかねる）があるが、こちらの場合、大きいものは小さいものの代わりを果せるという意味を持つ。しかし、実際にはそうでもないことが多い。収納スペースが限られている時などには、小さめの物を用意しておいた方が無難である。大きいものは無駄になる場合も多く、余裕のある場合には『大は小を兼ねる』で良いのだろう。</description>
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         <pubDate>Thu, 11 Oct 2007 16:48:08 +0900</pubDate>
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         <title>悪妻は百年の不作</title>
         <description>『悪妻は百年の不作』（あくさいはひゃくねんのふさく）は、性格や気質の悪い嫁をもらった男は一生幸せにはなれないという意味を持つことわざである。また、『百年』ということから、夫だけではなく子供や孫の代まで悪影響を与える可能性があると言うことを表している。酷似したものに『女房の悪いは六十年の不作』があり、これも同じような意味を持っている。悪妻を持つということは、自分だけでなく子孫にも害を与えるのだから、結婚する際にはよく相手を選ぶべきであるということである。妻というのは家事を始め、家系のやりくりをするため、一家にとっては大変大きな役割を果たす存在であり、その家の将来は妻にかかっていると言っても過言ではないほどである。一家の主は夫であっても、実際には妻と半々でやりくりをしていることから、『女房は半身上』ということわざも存在するのだ。夫は外で働き、妻は家を守るというのが当然だった時代に作られたことわざなのである。</description>
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         <pubDate>Tue, 19 Feb 2008 09:07:55 +0900</pubDate>
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         <title>渡りに船</title>
         <description>『渡りに船』（わたりにふね）とは、困っている時にちょうど良いタイミングで必要としているものが手に入るというような意味のことわざである。これは、川を渡りたい人が困っていたところに、ちょうど良く船が流れ着き、その船を利用して川を渡ることができたことから由来している。このようなことは滅多に起きるものではないが、生活しているうえで、石鹸がなくなってきて買わなければならなくなった頃にお中元やお歳暮で石鹸を贈られ、買わずに済んだというようなことなら可能性としてあり得るだろう。規模の大小はあるにせよ、実際の生活でたまに使えることわざである。『渡りに船を得る』、『渡しの船』も同じ。また、『闇夜に提灯』（やみよにちょうちん） も同じ意味を持つことわざである。暗闇で灯りが欲しい時に、ちょうど良くちょうちんが手に入ったという意味を持つ。簡単に思い浮かぶ言葉としては「ラッキー」だろうが、一言で片付けてしまわずに情緒ある言葉を使ってみるのも悪くはない。</description>
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         <pubDate>Tue, 22 Jul 2008 15:48:14 +0900</pubDate>
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         <title>災い転じて福となす </title>
         <description>『災い転じて福となす』（わざわいてんじてふくとなす）とは、不幸な出来事があっても、機転をきかせてそれにめげずに幸せを掴む事というような意味のことわざである。辛いことをひっくり返すくらいの勢いで乗り越え、幸せを掴み取れということである。不幸の後には幸せがあるという意味に捉えられがちだが、それとは異なる。また、自分の力ではなく偶然良い方向に移ったことに対しても使われることがあるが、ほとんどの場合、身に振りかかった災いをうまく活用して幸福に変えることを指す。</description>
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         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 01:59:26 +0900</pubDate>
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         <title>薮から棒</title>
         <description>『薮から棒』（やぶからぼう）とは、草木が茂る藪から突然棒のようなものを突き出され驚くという意味を持つことわざである。江戸時代の浄瑠璃の中でも使用されていることから、歴史のあることわざだと言える。唐突に何かを言ったり、行動した場合に「何を藪から棒に」のように使われる。</description>
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         <pubDate>Mon, 08 Dec 2008 21:14:30 +0900</pubDate>
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         <title>焼き餅焼くとて手を焼くな</title>
         <description>『焼き餅焼くとて手を焼くな』（やきもちやくとててをやくな）とは、人への嫉妬はほどほどにしろという意味のことわざである。「焼き餅」と「やきもち」をかけたもので、「焼き餅」は焼いても良いが、手まで焼いてしまって痛い目に遭うなということで、少しの嫉妬なら相手を気分良くさせることもあるが、あまり深い嫉妬は不快にさせるだけである。そして、相手を怒らせてしまうほどの嫉妬をすれば自分が嫌われて痛い目に遭うということを表している。また、「手を焼く」というのは、取り扱いが面倒で手こずるという意味を持っており、面倒なことに巻き込まれるなという意味合いも含まれている。</description>
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         <pubDate>Fri, 27 Feb 2009 23:55:37 +0900</pubDate>
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